大阪一人暮らし/2004年3月1日  →  3月26日

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 2004/03/26 終焉

大阪で一人暮らしをする事、1450日。
アメリカに行ったりしてたから、1430回ぐらいはテレビの電源を入れた。
東京オフで野宿とかしたから、1400回ぐらいは台所の蛇口をひねって水を飲んだ。
近隣のビルで落雷があっから、1000回ぐらいはネットに繋げて更新したりした。
生活費は自分で稼がなきゃならないから、800回ぐらいはバイト先と家を往復した。
紆余曲折あって単位がヤバくなったから、600回ぐらいはマジメに大学へ行った。
サイトの方向性が変わってきたから、300回ぐらいはサクセスモードに挑戦した。
テンションが高かったから、100回ぐらいはサクセスでキレてコントローラー投げつけた。
就職活動しなくちゃいけないのに、50回ぐらいは神戸まで行ってゲーセンに明け暮れた。

それもこれも、みな終焉。

 2004/03/25 空白を埋める

7部作(というより無理に7つに分けた)「確定ストーリー」によって潰れた、
本来日記として書かれるべき内容をここに凝縮。

3/18
追試の結果発表日。卒業確定。
実家に帰る予定が突如、新居移転で一人暮らし継続が決定。

3/19
ようやく決定した卒業で、数年ぶりに安堵感いっぱいの休日。

3/20
新居探索。兵庫県神戸市内にあっさり決定。現在の1.3倍の広さ。
家賃やら保証金やらかなりまけてもらった結果、現在より6000円安い家賃に。

3/21
引越しの旨を伝えた結果、「お風呂星人.ネット」の管理人が泊まりがけの来訪。DQ早解き競争。
(片方がDQ7、こちらはDQ1〜6をプレイし、どちらが早くクリアできるか競う暇人用企画)

3/22
荷造りをぼちぼち開始。その直前の様子をデジカメに収めておいた(後日公開)。

3/23
正式に新居の契約を終える。新居の入居日は3月27日に決定。
よって、本当の「大阪一人暮らし」も、日記の「大阪一人暮らし」も3月26日で終了。
通算では大阪での一人暮らし(2000/4/6〜)が1450日。日記(2000/9/26〜)が1277回。

3/24
引っ越しの申し込みやら、電話回線の移設やら、なんたらかんたら。

3/25
第77回・キャピ子もうちょこっとだけの更新予定。大阪からは最終更新。

日記「大阪一人暮らし」も残りあと1回。

 2004/03/24 確定ストーリーF

(3/23 確定ストーリーEのつづき)

追試験の出来は非常に微妙なものだった。
この授業は教科書が定められてなく、ノートを取る授業と講義要項に記されていたので、
3回生の経験から「この授業はノート持ち込みあり。試験範囲さえ分かれば大丈夫」
と予測していたので、この授業の時間は貴重な就職活動の時間として主に使っていた。
ところが試験直前になって持ち込み禁止だという事を知らされ、慌てて参考文献を購入。
可能な限り勉強したつもりだったが、本試験で見事に「不可」を貰っていた授業だった。
その追試が、また非常に微妙。本試験よりは出来ているはずだが、確信が持てない。
万が一これを落としていれば留年確定。受かっていれば卒業確定。まさに紙一重。
結果が出るまでの間、何度も自分の解答と問題を思い起こし、採点シミュレーションした。
「あれが合っていれば、オマケで合格にしてくれるだろう」という様な出来だっただけに、
試験結果が出るまでの間の1週間は、まさに採点シミュレーションの連続だった。
そんなこんなで迎えた2004年3月18日。

「これでもし留年確定だったら、もう俺の人生なんかなる様になっちまえばいいさ!!」

標準語で最後の決意をし、成績表を受け取る。
留年確定となっている成績表を見て、教員の前でショック死する恐れを避ける為に、
受け取ってからも暫く中身を見ずに歩き、教員の死角となっている場所で中身を見ると、

「あなたは今回の卒業判定審議の結果、卒業を認定されましたので、お知らせします。」

これで大学生活は終わった。最高の形で、とは決して言えないが、とにかく終わった。
特に最後の2年間、単位の事が常に頭のどこかに居座っていた頃は葛藤の連続だった。
もしこれが出来てなければこのベランダから落ちて死ぬか。と思った事も何度かあった。
でも、もう死ななくていい。今の所は生きてても世間は自分の大学卒業を認めてくれる。
うーん、生きてるっていいなぁ。

七部作という、「大阪一人暮らし」の終焉を飾るに相応しいテーマは、
これまでの大学生活をダイジェストで、割と真面目に振り返ってみた。
今年大学へ入学される皆様、間違ってもこんな大学生活は送らない様に願いたい。
ていうか、1・2回生の時にサボりすぎだっちゅうの。アホか俺は!? 死んだらええねん。

 2004/03/23 確定ストーリーE

(3/22 確定ストーリーDのつづき)

浮ついた心のどこかで、危機感を感知する能力はまだ備わっていたのだろうか。
後期試験で「ん??何だこれは!?」と思っていた授業を、見事落としていたのだった。
しかし、落としていたのはその授業のみ。残りの受講した授業は全て「優」だった。
この時点で修得した単位は120単位。通年の「ん??」の授業さえ取れれば卒業である。
しかも4回生には救済措置として、12単位分まで追試験(有料)が認められている。
去年の自分は66単位しか無く、卒業は絶望的だった自分が、卒業目前まで辿り着いた。
その自信は、大阪オフ(追試2日前)もバイト先祝賀会(追試前日)も問題にならなかった。
もうここまで来れば楽勝。余裕。卒業じゃん。と思っている自分に偽りは無いはずだった。

しかし・・・。

(Fにつづく)

 2004/03/22 確定ストーリーD

(3/21 確定ストーリーCのつづき)

12月上旬。突然見知らぬアドレスからメールが届いた。
中学〜高校時代、実家によく遊びに来ていた母の元同僚からだった。

「うちの会社でパソコン出来る人探してるんだけど、良かったらやってみない?」

あまりに突然すぎる就職への誘い。もちろん、ワラをもすがる思いで誘いを受ける。
こうして、半年余り掛けても出来なかった就職が、わずか1週間の内に決まってしまった。
あとは卒業すればとりあえず大学生活はハッピーエンド。予想だにしない事態だった。
途中で授業に専念した事もあり、持ち込み無しが大半だった後期試験も順調な出来。
1教科だけ「ん? 何だこれは!?」という出来の試験があったが、後はほぼ完璧。
1回生の頃からこう出来れば苦労しなかったけど、それも思い出か。ヒャヒャヒャ!
いかにもアホみたいな笑い方をしながら、後期試験の結果を心待ちにしていた。
前述の「ん?」の試験も、4回生という事で考慮されているはずという目論みがあった。

ところが・・・。

(Eにつづく)

 2004/03/21 確定ストーリーC

(3/20 確定ストーリーBのつづき)

海外研修の手続きも漸く終わり、か細いながら卒業への道が見え始めた4回生が開始。
当然就職活動である。限界まで授業を受けなければならない自分と他人との差は大きく、
生活費の為にバイトも休めない自分には、就職活動をする時間が相当限られていた。
それでも何とか4月上旬には最終面接直前までこぎつけるが、結局そこで燃え尽きる。
それ以降は一次の筆記試験で落ちまくり、7月頃には方針を改め卒業に専念する事に。
それが功を奏したのか、前期試験(前期科目)では全授業で「優」を取る事に成功した。
夏休み中も就職活動は続けたが、8月下旬の海外研修の為に行動制限も大きかった。

仕方なく行った海外研修は、そんな理由で受講した自分を恥じるほど素晴らしかった。
アメリカ人の許容範囲の大きさ、広々とした環境、メジャーリーグのレベルの高さ。
海外研修に行った本来の目的(卒業するため)を忘れさせるには余りある内容だった。
しかし、日本に帰れば再び修羅場に連れ戻される。筆記受からない。授業サボれない。
阪神優勝の直前(9/11)に帰国できたのは幸運だったが、比例する様にバイトは激務。
10月頃に入ると就職活動の事など考えず、大学の授業のみに専念する様になっていた。
海外研修の為に借りた25万円も、時々1日2食に制限したりして返済を軌道に乗せた。
そんなこんなで迎えた12月初旬。急に運命の女神が微笑んだ。

(Dにつづく)

 2004/03/20 確定ストーリーB

(3/19 確定ストーリーAのつづき)

なんと1つだけ、最も自信があった授業を落としていた。
成績表を受け取った後も、教授に色々とゴネてみたが「ダメなものはダメ」だった。
3回生終了時点で修得できた単位は66単位。4回生で受講できるのは56単位分まで。
全部合計しても122単位。どう計算してもあと2単位足りない。燃えたよ。燃え尽きた・・・。
そんな自分に教務課の人が一言「海外研修に行って残り2単位を補うしか無いねぇ・・・」
これが、8月下旬〜9月上旬のアメリカ研修旅行のそもそもの発端だった。

この海外研修(2単位)は学年で定められた受講単位とは別に受講する事ができる。
つまり、4回生の受講制限56単位とは別に2単位を受講する事ができると言うのだ。
この合計58単位を全て修得できれば、修得単位は66+58=124単位になり卒業も可能。
1つも落とす事は出来ないが、留年せず卒業できる見込みは辛うじて残されていたのだ。
とはいえ、海外研修もタダでは無い。申込(2ヶ月先)までに27万もの金が必要だった。
月5万貯まれば御の字の自分に、急にそんな大金が用意出来る訳もなく落胆していると、
「大学から最大25万円の貸与制度がある」という話を説明会で耳にする事ができた。
しかし、その制度を利用できるのは卒業アルバム代(4万5千円)を納めている者のみ。
その金すら用意するのも難しかったが、どうにか納める事ができ、貸与を受けられた。
他にも旅行者保険やら、パスポートやら、色々金が要ったがそれもどうにかクリアした。

海外研修には中国(13万円)、オーストラリア(26万円)、アメリカ(27万円)とあったが、
中国はSARSで中止。オーストラリアは計画の中に「牧場で野宿」があり個人的に却下。
最も高額だが最もまともで内容も割と充実しているアメリカを選択せざるを得なかった。

(Cへつづく)

 2004/03/19 確定ストーリーA

(3/18「確定ストーリー@」のつづき)

残り2年間で「不可」が許された単位数はわずか8。もはや失敗は許されない。
そんな状況下に置かれた3回生では、当然授業を選ぶ目もこれまでに無いくらい真剣。
それが功を奏し、受講した授業の殆どで初回授業時に「試験は持ち込みあり」と宣言。
良かった、持ち込み有りなら試験も何とかなる・・・。後にこの考えが悪魔を呼び寄せる。
悪魔を呼び出す呪文は「持ち込みありじゃん」。悪魔は自分の意志に揺らぎを掛ける。
別の言い方をすると、「危機的状況でありながら、それなりに授業サボってた」となり、
結果、前期試験で貴重な2単位を落とすが、その張本人はまだ危機感を感じていない。
24時間トークライブのような、暇人にしか出来ない企画を実行出来る意識は後を引き、
後期授業が始まっても、それなりに授業はサボる。正直言ってアホ以外の何者でもない。
その結果、最も多くサボっていた授業のレポート課題は未提出となり、「不可」が確定。
この時点で余裕はわずか2単位。しかし、残りの授業はそれなりに自信のある出来。
このまま行けば、4回生になっても卒業の見込みがまだ残されているだろう・・・。
そう思った矢先!!

(Bへつづく)

 2004/03/18 確定ストーリー@

うちの大学はパワ6の官僚大学のように、学年ごとの必要単位数が定められておらず、
どうやろうが4回生終了時までに124単位取っていれば卒業する事ができるのだが。

1回生の時は論述試験の勝手が良く分からず18単位。
2回生の時は委員会に出ずっぱりになりまともに授業に出られず、さらに夏に足をケガ。
貯めていた教科書代は治療費に。教科書は1冊も買えず、たったの6単位しか取れず。
2回生終了時でわずか24単位しか取れておらず、もちろん呼び出しを食らってしまった。
3回生では52単位、4回生では56単位分しか受講する事が出来ない。合計108単位。
残りの2年間で余裕はわずか8単位(通年授業2コマ)しか無い状況に立たされた。

(Aへつづく。)

 2004/03/17 やはり

期待した俺がバカだったのか。末恐ろしい。

 2004/03/16 なんも

なんもしてねえよ。

 2004/03/15 監督

うーん・・・。ああーっ・・・。
かっ、何をしとんねん・・・! よしよしよしよし・・・・。

よぉっしゃああああ!!!!!

ようやくメダル3500枚獲得。今日は来てよかった。
「監督」って言うのはもちろんコーヒーのほう。

 2004/03/12〜14 何やればいいんだ?

バイトが終わって、初めての金曜日、土曜日、日曜日。
3年も続けていた生活リズムはそうそう抜けるはずもなく、
「俺、ここでこんな事してていいんだろうか。」という気になる。
その後で思い直して、「あっ、別にいいんだ。辞めたんだった。」と思うのだが、
なんか、どっしりと構えて休みを楽しむ事ができない。何やって過ごせばいいのか。

体質が変わってしまったのか。

 2004/03/11 健在

実家の近くには父方の祖父母が住んでいる。
幼少の頃は毎日の様に通って、たくさんお菓子をもらった。
それほどの頻度も年を経るにつれて激減して行き、今では年に数回。
じいちゃん(80歳)、ばあちゃん(73歳)共にまだまだ健在なのは喜ばしい限り。
特にじいちゃんは、昔から今に至るまで機械いじりや木工作が大好き。
訪ねるのが年に数回の頻度ともなると、毎回行く度に新しい作品が増えている。
そういえば自分の父も、休日になれば日曜大工で何かこしらえるのが好きだった。
かく言う自分もそう。ヒマとあれば何か新企画が出来ないかと考えるのが好き。

自分の息子は一体どうなる。(ていうかどっちか分からんのに息子って)

 2004/03/10 終止符

ついに3年4ヶ月続けてきたバイトも今日で終結。
総勤務日数およそ800日。総勤務時間3500時間。稼いだお金は約250万円。

思い切り泣くかと思ったが、意外とあっさり終わった。
ありがとうございました。

 2004/03/06〜09 ボケ!!

いろんな事ありすぎて覚えてないんじゃ!!
ていうか? 日記書くのサボってた俺が悪いんやけど?
まあ、こういうのを「逆ギレ」って言うんやね・・・。
そやね・・・。見てる人は何にも悪くないもんね・・・。
すんません、本当に。

 2004/03/05 若ければこそ

自分の考えをより多くの人に伝えたい。ギャフンと言わせたい。
そういった情熱は、元々頼りなかった判断力を完全に取り去ってしまう力を持っていて、
室内の話題に同調する事なんて思いもしない。自分の意見を誰かに聞いてもらいたい。
やっと俺も一人前に社会を頭の中で整理して、人に伝えられる様になったんだから。
分かっちゃったよ。俺もう。ていうかそこら辺の大人より俺の方が物事分かってるよな。
という風に、今後も体験せねばならない過程をすっ飛ばして、本人は錯覚を起こして、
こんな行動を他人に吹っ掛けて、自分の成長を成果をもって確実に認識したくなるもの。
もちろんこれは悪い事ではなく自然な事で、実際に大人になるには大切な事なのだが、
その完成度の低さから、傍観者が行き過ぎた嘲笑をする事がネットでは非常に多い。

彼より年上の者からすれば、その内容はもちろん一人前ではないのは一目瞭然だが、
ここでムッと「空気読めよおめぇは!」と突っ返す様だと、立場は彼とさほど変わらない。
と言って「それは違いますねぇ」としっかり否定するのも、間違いではないが味気ない。
素性を知る知らないに関わらず、こちらも同程度の完成度で反応し喚起させる事で、
自らの欠点を見出し、改善する機会を与えるのはやはり必要なのではないだろうか。
多面的に捉える様になり始めた感覚を萎縮させてしまうと、変な人間に育ちかねない。
喚起に気づくかどうかという点もあるが、何もしないよりかは成長が見込めるはず。

期待している。って書いてる自分も今年でまだ23歳。怖っ!!

 2004/03/02〜04 こっちもラスト

今週水曜日でバイト最終日までいよいよ1週間。
この後に続く内容は前回の「一人暮らしまであと・・・」とまるで同じなので、
書くのもめんどくさいし省略。

 2004/03/01 ああ・・・。

今日もダメだ・・・。
いや、アカンアカン。ここで挫折したら。次行った時は絶対に!!

こんな経緯を何回繰り返したら・・・。

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